某コンクールでボツになった感想文
今年(2006年)の初めに、父が亡くなりました。
去年(2005年)の10月頃から、父の介護で、それはそれは大変な毎日の連続でした。
丁度その頃から、なぜか家では三部経を読誦し、通勤では『法華経の新しい解釈』を読む毎日が続きました。
すると辛い毎日の中、いろいろとお手配がつくようになったのです。
また、父の介護に限界がきた時にも、三部経を読誦していると心が癒されました。
それは、まさに祖母の代から三代続くご法の功徳だったのかも知れません。
さて、『法華経の新しい解釈』を読んで感じたことは、映画のようなストーリー性と映像イメージがあったことです。
はじめに人間と人間以外の沢山のギャラリー(信者達)の中で、釈尊の沈黙からスタートし、額から光を放ち、舎利弗との三止三請により、究極の真理をお説きになり始めます。
そして、究極の真理とは、八正道と六波羅蜜を実践した良因に基く『縁起と輪廻』の法則だと受け止めさせて頂きました。
人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。
すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。
つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になるのかな、と思わせていただきました。
このように教えも素晴らしいのですが、法華経には、釈尊以外にも魅力的な人物が沢山登場します。
舎利弗をはじめとする十大弟子、文殊・普賢・弥勒・観音・上行等の菩薩、多宝・阿弥陀・燃燈等の仏様。
私は、その中でも特に常不軽菩薩の生き方に感銘を受けました。
人に馬鹿にされたり、迫害を受けたりしても、決してその人たちを恨まず、ただひたすら、その人たちの仏性を拝む菩薩。
そう、すべての人には仏性(良因)があり、良縁に触れれば、だれでも仏になることが出来る。
私は、会社でも意識的に相手の仏性を拝んで、挨拶をしています。無視する人にも、しない人にも。
すると、周りの人が、なにかと親切にしてくれるのです。これは、単なる気のせいでしょいうか・・・。
いえいえ、これこそが法華経実践の功徳なのだと確信する毎日になっています。
これからも、法華経を実践して、人さまと共に幸せになりたいと思います。
しかし、50歳を過ぎ、いつリストラされるかわからない不安、また、働いても働いてもなぜか貧乏で辛い毎日、本当に法華経の実践で幸せになれるか、まだまだ心配で心細い毎日の連続ですが、『法華経の新しい解釈』で理解を深め、法華経の読誦と実践で、なんとか乗り越えていけるかな、と思えるようになって参りました。
(本部では、ボツでしたが、教会では、出会い賞を頂きました。)